日本のウランガラス

1)近代ガラス工業の発祥「品川硝子製造所」

 日本のウランガラス(UG)は大正から昭和の初めにかけて製造されましたが、メーカー名は殆ど分かっていません。その中で、雑誌「鉄道ファン」2003年3月号に大森潤之助さんが書かれた記事の中に「島田硝子(大阪・日本)が大正時代に、英文「SHIMADA, OSAKA, JAPAN」と、その名前を記したガラス瓶を輸出用に製造していた」ということが書かれています。
その後、UG同好会の河本会員から「島田硝子の創始者:島田孫市とは以下のような人物らしくご紹介します」との記事が寄せられました。
 近代ガラス工業の礎となった有名な「品川硝子製造所」は、明治6年(1873)年に品川興業社・硝子製造所が開設され、明治9年(1876年)工部省がこの製造所を買い上げ、官営の「品川硝子製造所」となったことに始まります。
政府の殖産興業政策を受けて、明治12年(1879年)に英国人のガラス技術者 James Speed らを雇い入れ、板ガラスの製造を目指したものの、これを達成することなく明治25年に経営難から約20年の幕を閉じました。
同工場の製造設備や技術者は、英国から導入したものであった。この品川硝子製造所が、ウランを輸入していたとの記録はありますが、ウランガラス製品は発見されていません。
現在、この工場の建物は、愛知県・明治村に移設されています(右下写真は旅おりおり様撮影)。

品川硝子製造所跡地の記念碑(当HP管理人撮影)

明治村に移設された建物
 品川硝子製造所では、英国、ドイツ、オーストリア等から技術者を招聘して伝習生を育成し、ここで育った伝習生が日本各地に散って日本のガラス産業の草分けになることとなりました。
日本で初めてステンドグラスを作り、後に岩城硝子の創始者となった岩城瀧次郎をはじめ、徳永玉吉(徳永硝子)、谷田磐太郎(東京硝子)など、明治13年(1880年)時点で75名が在籍していたとのことです。
日本で本格的にガラス器を製造販売した島田孫市も伝習生の一人で、明治21年(1888年)に大阪で「島田硝子製造所」を設立しています。(大正9年時点で職工数500余名との情報あり)。同社は戦後、「東洋ガラス株式会社」と社名変更し、現在も営業しています。(2003年記。2014年補記)

品川硝子製造所は板ガラス製造には失敗したものの、英国人らは大阪へ移って指導し、旭硝子が日本初の板ガラス製造に成功します。

2)日本のウランガラスの始まり:
 岩城硝子の創始者となった岩城瀧次郎が、米国からUGの製造法を持ち帰ったとされているのが明治33年(1900年)で、そのUG製造法を島田孫市に伝え、島田孫市は明治34年(1901年)に島田硝子製造所(大阪市)でUGの製造を始めた、とされています。
 島田硝子製造所」は明治43年(1910年)頃から昭和5年(1930年)頃まで、大量のUGを製造していました。これらは大量生産のため、殆どがプレスガラス(型押しガラス)です。

 その他、佐々木硝子(東京都、現在も操業)、石塚硝子(愛知県、日本最古のガラス会社とされており、現在も操業)、小西硝子など、多くの会社がUGを製造していましたが、昭和16年(1941年)に米国がウラン輸出を禁止した為、原料が入手できなくなって製造中止となり、ガラス工場自体も第二次大戦の爆撃で殆ど壊滅しました。
佐々木硝子の社史によると、昭和15年(1940年)に、ガラスに絵を印刷する技術を発明し、大量の絵入コップなどを製造したとのことです。(2010年7月・12月補記)

広口瓶。蓋に「SHIMADA,OSAKA,JAPAN」の刻印。高さ17.0cm、直径11.5cm、内容積 1100cc.。
これの半分の体積の瓶も作られていて、1ポンド入るので「ポンド瓶」と呼ばれていました。

島田硝子製造所の歴史については、「東洋ガラス100年の歩み」という同社の社史に詳しく出ています。


島田孫市の略歴
1862年 (文久2年)に島田村(現在の大分県内)で生まれ、17歳で上京し、その後、1879年(明治11年)に品川硝子製造所に伝習生として入所しました。ここで、英国人技師ジェームス・スピードにガラス製造技術を、また、エリジャー・スキッドモアからルツボ技術を学びました。1883年(明治16年)に退所して日本硝子会社に参加し、明治20年まで活躍します。
その後、1888年 (明治21年)に島田硝子製造所(右写真★)を創設し、1902年 (明治35年)には板硝子の製造に成功しますが、こちらは事業化できずに終わりました。
1927年 (昭和2年)に逝去.。
(★:「日本のガラス」土屋良雄著によると、右写真は島田硝子製造所の販売用パンフレットの写真とのことである)
島田孫市の肖像写真
ベルギーを視察した明治38年頃の写真のようです。
(島田孫市の曾孫の島田修様より掲載許可を得ました)
2014/5記


大森氏の著書「日本のウランガラス」から、各社の要点をまとめました。(2010年12月記)

品川硝子(東京) 現存するか不明。
岩城硝子(東京、現在も操業) 明治32年に米国より帰国し、日本にウランガラス製法を伝え、自社で製造を試みたとされるが、現存するか不明。
三好硝子(大阪) 野々村藤助(TN)作。現存する最古(明治36年)。
島田硝子(大阪、東洋ガラス鰍ノ社名変更) 明治42年よりUG製造開始。日本最大のUGメーカー。「SHIMDA」の刻印。
小西硝子(大阪) 「KONISHI」の刻印。
福本権三郎(大阪) 「FUKUMOTO」の刻印。
要明社(大阪) 「YOMEIGO(要明号)」の刻印。
上田徳(大阪) 「UEDATOKU」の刻印。
手島?(大阪) 「HAND BRAND」の刻印。
佐々木硝子(東京、現在も操業)
石塚硝子(愛知県、現在も操業) 日本最古のガラス会社とされている。「ISHIDZUKA」の刻印。


ウランガラス時計は、

@ 精工舎 (Sマーク)、1892年(明治25年)に創立された時計製造メーカー。
A 東京時計 (羽根つきTマーク)、1920年(大正9年) に創立された隆工舎(東京時計製造株式会社)。
B 東洋時計 (TCマーク)、1920年(大正9年)に東洋時計製作所として設立され、置時計製造を始めた。
C 英工舎 (TSUマーク)、1924年(大正13年)に時計製造を開始した鶴巻時計店・英工舎。詳しくは左記をクリック。

があり、これらは英字マーク、または文字盤にローマ字社名が書かれており、発見は容易です。

3)日本で最初のウランガラス時計
大森潤之助さんの著書「日本のウランガラス」によると「日本で最初のUG時計は明治42年(1909年)に販売された精工舎の置時計と推察される」と書いてあり、当時のパンフレットの「色合ハ青色(草色)及水色(藍色)ノ二種アリ」という文章から「日本で最初のUG時計はこれであろう」と書かれていますが、著書には現物は載っていません。
今回、青色、濃緑色、若草色、の3個を入手しました。
いずれも明治42年から大正11年まで販売された日本で始めての精工舎のUG製置時計で、ネジを巻けば動きます。
下記は「古時計.com」さんが掲載している資料です。(本項目は2014年記)


日本のウランガラス製造工場は、島田硝子はじめ、大阪に多いことが分かっています。なぜ、大阪にガラス工場が多かったのか、2008/3/17の日本経済新聞の記事で知りました。

4)なぜ大阪にガラス工場が多かったのか
 4月といえば、大阪造幣局の桜の通り抜けが有名です。JRの駅にも「桜ノ宮」というのが近くにあります。八重桜が主なので、4月後半の1週間だけ、構内を通り抜けて、桜見物が出来ます。
 明治4年(1871年)、新貨条例が布告され、日本の通貨単位が「円」となりました。 政府は大阪に造幣局を作り、新しい貨幣の鋳造を始めます。当時は江戸幕府が崩壊し、大阪がこれからの日本の中心になる、との意気込みで、大阪になったとかいうことです。
 所で、貨幣を造るには、金属の製錬が必要で、そのために、政府は明治14年(1881年)、大阪造幣局で硫酸の製造を始めました。そして、塩と硫酸を原料として、ルブラン法による苛性ソーダやソーダ灰の製造を開始しました。これが、日本の化学工業のスタートでした。この苛性ソーダを民間で利用しようと云うことで、ガラス工業が大阪で始まった訳です。その後、第二次大戦の爆撃で、ガラス工場の多くが破壊されました。
 なお、「ソーダ」とは、ナトリウムのことで、塩(NaCl)から作りますが、この塩は、日本の塩の大部分を供給していた瀬戸内海の塩田で製造されたものだったので、そういう意味でも大阪が都合良かったのかも知れません(当HP管理人の想像です)。
実は大阪は、江戸時代の1750年頃に、長崎で吹きガラス製法を学んだ職人がガラス製造を始めたことにより、当時の日本で最もガラス製造が盛んでした。
大阪市内の天満宮に「ガラス発祥の地」という石碑があります。
こういった地盤があったからこそ、明治になってから大阪のガラス産業が盛んになった背景なのでしょう。
(2013/12補記)




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