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ウランの科学的歴史
以下、ウランの歴史について書かれた論文の翻訳を添付いたします。ウランの最も伝統ある正規の利用方法は着色剤であったことが示されています。また、1895年のレントゲンのX線発見、1896年のベクレルの放射能発見、1898年のキュリー夫妻のポロニウム、ラジウムの発見を連関してうまく説明しています。
(記事はUG同好会の高橋啓三会員提供。画像は当HP管理人が追加)
http://ist-socrates.berkeley.edu/~rochlin/ushist.html
「ウランの科学的歴史について(1789-1939)」
以下は、フランスの原子力界の中心人物ベルトラン・ゴールドシュミットが1989年にウラン協会のシンポジウムで、ドイツ人化学者クラプロート教授の1789年のウラン発見の200年記念講演の内容。
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この物語は16世紀当初に始まる。ヨハヒムスタールというザクセンとボヘミアの境界の狼と熊の住む未開の森で銀が発見された。その結果、ザンクト・ヨアヒムスタール(Sankt.
JOACHIMSTHAL)(聖ヨハヒムの谷)と名付けられる、人口2万人の比較的に大きな町が中欧に生まれた。当時、ボヘミアの首都プラハの人口は5万人であった。
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写真等は現地を訪れた大井会員提供 |
チェコの地図とヨハヒムスタール(チェコ語ではJACHYMOV) |
ヨハヒムスタール(現在は温泉保養地) |
銀の発見はヨアヒムスターラー、後には単にターラー(Thaler)と呼ばれる200万個の大量の銀貨を生み出した。これは世界で通貨として認められ、名前は少し変わり、ダラー(dollar)の起源となった。(ドルの起源)
ケネディ肖像の硬貨(ハーフダラー)。
昔、アメリカで買い物のおつりで貰った(HP管理人)。
但し、銀製なのは1970年までで、1971年の写真の硬貨は白銅とのことです(2011/4追記)。 |
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しかし、ヨアヒムスタールの繁栄は短く、16世紀の中頃には鉱脈は枯れ、深く掘るためのポンプがなく、新大陸アメリカからの銀に対抗できなくなった。ペストと30年戦争の後にはヨアヒムスタールは17世紀の半ばには寂れた。
しかし、鉱山そのものは閉鎖されず、ハプスブルグ王家の財産として、ビスマスやコバルトの採掘が続けられ、また採掘技術の進歩で18世紀には銀生産は増加した。
鉱夫は長い間、銀とは異なる輝く黒い鉱物の存在を認めそれをピッチ・ブレンド(pech blende)
とよんでいた。ドイツ語でpechは不運、blendeは鉱物を意味していた。
これは「ピッチブレンド」または「瀝青ウラン鉱」あるいは「閃ウラン鉱」と云われる黒い酸化ウランUO2の上に、黄色い「ベクレル石 Ca(UO2)・
2(PO4)2・10〜12H2O」が乗った鉱石です。このサンプルは60%程度の酸化ウランを含んでいて、比重は8g/cc程度とかなり重い。ただ、これはヨアヒムスタール鉱山ではなく、アフリカ・ザイール産。(HP管理人所有物) |
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1789年にドイツ人化学者クラプロート(Martin Klaproth)は、ピッチブレンドから抽出したものを"奇妙な半金属(彼は酸化物として抽出)"と呼び、この新元素に自分の名前をつけたがり、それが当時の習慣であったが、しかし彼の謙虚さのおかげで我々はそれを現在、言いにくいクラポロシウムと呼ばずに済んでいる。
クラプロートはこの発見を夏になしたが、同じころパリ市民がバスチーユ監獄を攻撃している頃で、彼の論文は1789年9月24日にベルリン・科学アカデミーに提出された。彼は、より良い名前が発見されるまで、この新元素の名前を、最近発見された天王星ウラナス(uranus)にちなんで、ウラン(Uran)と名付けた。天王星の発見は1781年にドイツ人William Herschel(ハーシェル)によりなされ、彼に敬意を表するためでもあった。
ウランの発見者=クラプロート
彼は後にジルコニウムも発見した。 |
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その後の100年間のウランの歴史は、平凡なものであった。世界各地でウランは発見されたが、いずれもヨハヒムスタールよりも品質は悪かった。
1841年にはフランス人化学者Eugene Peligotにより、四塩化ウラン(UCl4)の金属カリウムによる下記の還元反応で金属ウランが初めて得られた。
UCl4 + 4K=4KCl + U
(2011/4誤記訂正) |
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1870年にはウランが地球で存在する最も重い元素であることが分かった。これはロシア人化学者メンデレフDimitri
Mendeleevの周期律表で確認された。
クラプロートの発見後の150年間のウランの利用は、その酸化物及び塩化物の鮮やかな色に起因するものであった。これらは、緑の蛍光を発する黄色のガラス、陶器(ceramic)や磁器(porcelain)の上薬(glazes)としてオレンジ、黄色、赤、緑、黒に使用された。後に硝酸ウラニルが写真術で写真ネガやプリントにセピア色を出すために使用された。ガラスや陶器の色付け技術は長い間、ボヘミアの独占技術として守られていた。即ち、ウランでの秘密の歴史は1940年代以前の非常に初期にもあった。
ウランを釉薬にした陶器の花瓶
上の赤い部分がウラン。
ドイツより購入。 |
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ガラス及び磁器への色付けの商業利用でヨハヒムスタールの活動は再生し、銀生産よりウランの色付け生産物が重要となった。1855年にはオーストリアの化学者Adolf
Pateraにより種々の黄色及びオレンジの化合物の大量生産工場が建設され、これらの高価な生産物は重要なボヘミアからの輸出物となった。19世紀中のこの目的でのウランの生産量を正確に推定するのは難しいが300ー400トンであろう。このうち僅かは、英国のCornwall、ポルトガル、米国コロラドのものである。
19世紀の終わりには、ヨハヒムスタール鉱山は利益を生まなくなったきた。坑道は更に深くなり、また色付け用ウラン化合物の価格は競合の新着色剤の登場で下落した。閉山の危機に、今回はAustro-Hangarian政府の手でそれが行われそうになった。しかし、特記すべき科学的な発見の連続で、鉱山は救われた。
1895年11月8日の夜、Wurzburg大学のレントゲン(Wilhelm Roentgen)が陰極管を操作している時にbarium platinocyanidを浸した紙が発光しはじめ、彼がチューブと紙の間に手を入れると、手の骨の影が紙に写された。彼は非常に驚いて後にX線と呼ばれるこの発見を誰にも言わずに、7週間、一人で実験を続けた。12月28日には論文をまとめて雑誌に送った。同時に別刷りを著名な欧州の物理学者に送り、チェックを求めた。彼は1901年に最初のノーベル物理学賞を受けた。
X線の発見者
レントゲン |
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フランス人化学者ポアンカレ(Henri Poincare)は別刷りを受け取った一人であるが、1896年1月24日に同僚のベクレル(Henri Becquerel)にそれを見せた。ベクレルはウラン塩を含む燐光及び蛍光物質を専門的に研究していた。ポワンカレはX線が蛍光を招くなら、何らかの蛍光物質がこれらの新しい放射線(ray)を生まないか調べたらと助言した。その後2ー3週間、ベクレルは種々の物質で試験を行い、uranyl
potassium sulphateが太陽で照射すると燐光を発することを発見した。彼は、このような照射の後にこの化合物が黒い紙で包まれた写真板を曇らすことを発見したと、1986年2月24日に科学アケデミーの会合で発表した。その後悪天候で太陽が出ず、ベクレルは写真板とウラン化合物を引き出しに入れておいた。太陽が出たので引出しから取り出すと、写真板が曇っており、ウラン化合物からの放射線が、写真板を感光させていたのがわかった。ベクレルはこれらの放射線がウランから出ており、X線と同様に空気をイオン化していることはすぐに証明できた。
放射能の発見者ベクレル
なお「放射能」の命名はキューリー夫人 |
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その飛躍は、キューリー夫妻(フランスの物理学者Pierre Curieとポーランド人の妻Marie Sklodowska Curie)によりなされた。ピエールは以前に兄弟のJacquesとピエゾ電気を石英から発見して空気のイオン化の精密測定に使用していた。彼は、第一子Ireneの出産の直後の妻に、博士論文のテーマにはウランからの放射線の精密測定を勧めた。
最初の結果はベクレルの発見した放射線の強度は、化合物中のウラン濃度に比例することであった。彼女は、ウラン鉱石そのもの、ピッチブレンドから測定することとした。驚くべきことに鉱石からの放射能は、それから抽出したウランよりはるかに強かった。1898年4月に発表した論文でこれらの放射能はウランよりもっと放射能の強い新元素であるとした。夫と協力して、母国にちなんだ名前のポロニウム(polonium)を発見した。更にラジウム(radium)もGustave
Bemontの助けを得て発見した。
更に大量の新元素を得る為にキュリー夫妻は、ウィーン科学アカデミー総裁Eduard
Suessに、ヨアヒムスタールでのウラン抽出の残余物の提供を求めた。袋に詰められたトン単位の茶色の残さが2ー3週間後に馬車で到着し、2年間の疲弊する作業後に0.1gのradium
bromideを、また更に2年後に8トンの残さから1gのラジウムを1904年に抽出した。
この時点では、ラジウムの医学への適用が急速に計られていた。キュリー療法(Curie
therapy)と呼ばれ、外科手術とともに、深部のガン治療に使用された。ラジウム針やラドン針が使用された。1903年にはキューリ夫妻はベクレルとともにノーベル物理学賞を、ピエールが事故死した6年後の1911年にはマリーはノーベル化学賞を単独受賞している。
ラジウムの発見後、少量の被ばくは健康によく刺激的な効果があると信じられた。この信念は1920年になって、ラジウムの服用により初めての犠牲者が出て、またマリー・キュリーのように注意せずに放射線ソースを素手であつかった場合に手に深い火傷を受ける事象が出ても変わらなかった。このような信念は、主要な温泉にラジウムやラドンが少量含まれているからであろう。
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マリー・キューリー |
ピエール・キューリー |
ポロニウムやラジウムがウランの自然崩壊に起因していることを発見したのは、キュリー夫妻ではなく、カナダで働く英国チームであった。物質の放射性崩壊の理論は1901年にニュージランドのラザフォード(Ernest
Rutherford)及び英国のFrederick Soddyが考え出した。
ウランは非常に弱い放射能を持ち、1mg/T/年と緩慢に崩壊して、崩壊の連鎖を通じて最後は安定した鉛となる。それぞれの娘核種は、特定の崩壊定数を持ち、鉱物中の存在比は崩壊定数に逆比例している。ラジウムは5番目の崩壊生成物で、その娘核種がラドン・ガスで、ポロニムは鉛の前の放射性核種である。
中世の練金術師の夢は鉛から黄金を作ることであったが、クラポロート元素で生じていることは、この逆である。但し、その崩壊が僅かであるために、我々の惑星が生まれて45億年が経過しても地球上に存在している。鉱石中に3トンのウランが存在すれば、ポロニウムが0.25mg、半減期1600年のラジウムが1g存在する。
<パート2;略)
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(以下、HP管理人の追記)
1900年前後の10年間は、20世紀の歴史を変える大発見が続いた時期でした。
1895年 |
レントゲンがX線を発見(上記) |
1896年 |
アンリ・ベクレルがウランからの放射能を発見(上記) |
1897年 |
トムソンが電子を発見 |
1898年 |
キュリー夫妻がラジウムを発見(上記) |
1899年 |
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1900年 |
プランクの量子論 |
1901年 |
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1902年 |
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1903年 |
ライト兄弟による飛行機の実験 |
1904年 |
長岡半太郎の原子模型の理論 |
1904年 |
フレミングによる真空管の発明 |
1905年 |
アインシュタインの相対性理論 |
後に、ヨハヒムスタール鉱山は、ボヘミア地方を占領したドイツ領となり、ここから産出されたウランを研究していたドイツ人科学者オットー・ハーンが1938年にウランの核分裂を発見します。そのわずか7年後、1945年に日本に原爆が落とされるわけです。
訳注;核種の半減期、ウランー238(45億年)、ウラン-235(7億年)、Pu-239(2.4万年)、Cs-137(30年)、Co-60(5.3年)、I-131(8日)、ラドン-222(3.8日)
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